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東京地方裁判所 昭和60年(行ウ)19号 判決 1990年1月26日

原告

篠田百合子

右訴訟代理人弁護士

渡部照子

被告

地方公務員災害補償基金東京都支部長 鈴木俊一

右訴訟代理人弁護士

大山英雄

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告が昭和五八年五月一六日付けで原告に対してした地方公務員災害補償法に基づく公務外認定処分を取り消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1(一)  原告は、昭和三一年六月東京都公立学校教員に任命され、昭和五〇年当時東京都立大塚ろう学校において勤務していたが、同年五月下旬午前一〇時三〇分ころ、同校中等部特別学級教室において屈み込んで教科を説明中、男子生徒である蜂谷圭吾(当時一三歳)に肘で頸部を強打されて受傷し(以下「本件事故」という。)、東京都世田谷区所在の井上外科医師井上淳の診療を受け頸椎変形症(以下「本件疾病」ともいう。)と診断された。

(二)  原告は、昭和五六年一〇月一六日に被告に対し、本件疾病が公務により生じたものであることの認定を請求したが、被告は昭和五八年五月一六日付けで原告の傷病を頸椎変形症と認定したうえで、公務外の災害と認定する旨の決定(以下「本件処分」という。)をした。

そこで、原告は、これを不服として地方公務員災害補償基金東京支部審査会に対し審査請求をしたところ、同支部審査会は昭和五九年五月一八日付けで右審査請求を棄却したので、さらに、原告は地方公務員災害補償基金審査会に対し再審査請求をしたところ、同審査会は同年一一月一四日付けで右再審査請求を棄却する裁決をし、原告は同年一二月六日に右裁決書謄本の送達を受けた。

2  しかしながら、本件疾病は後記のとおり公務に起因するものである。

(一) 事実経過等について

(1) 本件事故の加害者である蜂谷圭吾は、重度の自閉症傾向を有する情緒障害児であり、当時身長一六五・五センチメートル、体重約五〇キログラムという成人並みの体格を有しており、原告はその蜂谷に肘で頸部を強打されたもので、本件事故時の衝撃は激しく、一分ないし二分間意識不明に陥ったほどであった。なお、原告は、昭和五〇年一〇月下旬及び一一月上旬にも教室内における授業中、蜂谷に背部を強打され、また、昭和五一年四月上旬には埼玉県内の森林公園における課外授業中、同人に胸部鎖骨部分を肘で強打されている。

(2) 原告は、本件事故後全身的に具合が悪く、特に目が眩しくかすむようになり、立ちくらみが起きる状態が続き、頸上部の骨がねじまげられるように痛み、首の骨が折れそうであった。そこで、原告は昭和五〇年七月上旬に東京都新宿区所在の温知堂医院医師矢数道明の、同年一〇月には東京都中野区所在の近藤宏二内科クリニック医師近藤宏二の各診療を受け、それぞれ右症状を話した際、いずれの医師からも交通事故にあったことはないかと尋ねられたが、本件事故のことに気付かず、交通事故にあったことはない旨答え、結局その原因は不明であった。

(3) その後も、頸上部の骨がねじまげられるように痛むことが多く、時には吐き気や立ちくらみがひどくなったため、昭和五三年八月ころ、接骨治療師稲見章の診療を受けたところ、同稲見から、頸椎と背骨とが亜脱臼して変形しているが三年以上前に怪我をしたことはないかとの質問を受け、初めて本件事故が右症状の原因であったことが分かり、その後約一年間同稲見の治療を受けた。

そしてその間、原告は、科学的な見地から患部の状況を知るために、昭和五四年五月ころ井上外科において医師井上淳の診療を受け、同医師から、X線撮影の結果、第五、第六頸椎間の後屈があり、少なくとも半年以上前の外傷によるものであり、頸椎変形症であると診断され、このまま放置しておくと今に大変なことになると言われて、すぐに牽引治療を始めたが、井上外科が原告宅や勤務先と離れていたので、右治療は三回受けただけで中止した。

(4) その後、昭和五四年一〇月に東京都千代田区所在の三楽病院の、昭和五五年九月には東京都豊島区所在の一心病院の各治療を受けたが、一向に快方に向わないので、再び昭和五五年一二月に井上外科で治療を受けることとなった。そこでの牽引治療は、牽引三キログラムから開始し、四キログラム、五キログラムと増量して続けられたが、頭痛が続き、頸部、胸部、背部等が絞めつけられるように苦しく、また、吐き気、手の痺れ、車酔いのような状態、左耳の痛み、頸の骨(主に左側)がねじまげられるように痛む等の症状が続いた。

そして、井上外科で牽引治療を行いながら、昭和五六年七月からは、前記近藤宏二内科クリニックで鍼治療を受け始めたが、そのころの身体の状況は、雨天時には特に後頭部から頸部にかけて激しく痛み、首や左肩から胸にかけて絞めつけられるように苦しく、また、吐き気、背骨の痛み、背中の重苦しさ、左手の痺れ等が交互又は一度に現れるようになっていたため、昭和五七年四月からは、さらに東京都練馬区所在の保坂治療院において、鍼や灸の治療を受けるようになった。

なお、医師近藤宏二は、原告の症状を頸肩症候群と診断し、右症候群は本件事故によるものと診断している。

(二) 因果関係について

(1) 右に述べたとおり、本件事故は原告の公務中に生じたものであり、かつ、右頸椎の変形は外傷性のもので、原告は、本件事故のほか頸部に特に外傷を受けたことがないから、本件事故と原告に発現した様々の症状の原因たる本件疾病とは相当因果関係があり、本件疾病は原告の公務に起因するものというべきである。

なお、地方公務員災害補償基金審査会は、医師井上淳が撮影した前記X線写真を読影して、「第五、六頸椎間に後彎と椎間板の軽度の狭小、第六、七頸椎間の椎間板の変性及び第五、六、七頸椎椎体に骨棘形成を認めるほかバルソニー項中隔石灰化像が認められた」としながらも、「明らかな受傷の痕跡は認められず、本件のような疾病は、加齢的変化によって自然的に発症することも多い」との理由で本件事故との因果関係を否定しているが、「第五、六頸椎間に後彎」と「椎間板の軽度の狭小」とは本件事故によるものであり、これに起因して、第六、七頸椎間の椎間板の変性は徐々に発現し、第五、六、七頸椎椎体の骨棘形成は、その過程で形成されたものとみるべく、原因と結果は明らかである。

(2) 仮に、右頸椎の変形が本件事故により直接生じたものでないとしても、本件事故が主たる原因となって、これに蜂谷による前記の本件事故後の暴行が加わって原告の症状は一層悪化し、本件疾病が生じたものであるから、本件事故と原告に発現した様々の症状の原因たる本件疾病との間には相当因果関係があるというべきである。

すなわち、原告は、本件事故後も、右に述べたとおり、蜂谷の度重なる暴行により症状は悪化し、各医療機関に対し、昭和五三年八月には目のくらみを、昭和五四年一〇月には吐き気及び眩暈を、昭和五五年九月には頸部、目及び耳の痛み、手の痺れ、むくみ等を、同年一二月には吐き気、首の骨の激痛、背部の圧迫感、左手の痺れ等をそれぞれ訴えている。このように、原告は、公務遂行中に多くの暴力行為を受けて右のような症状が現われ、これらの症状は本件疾病に起因するものであるから、本件事故と本件疾病との間に相当因果関係が認められ、本件疾病は原告の公務に起因するものというべきである。

3  よって、原告は被告に対し、本件処分の取消しを求める。

二  請求原因に対する認否及び主張

1  請求原因1の事実は認める。

2(一)  同2(一)(1)の事実は知らない。(2)ないし(4)の各事実のうち、原告が原告主張の時期に温知堂医院医師矢数道明の、井上外科医師井上淳の各診察を受けたこと、右医師井上が頸椎変形症と診断したことは認め、その余の事実は知らない。

(二)  同2(二)は争う。

3  原告の本件疾病と公務との間には相当因果関係はない。

(一) 本件疾病が公務上の災害と認められるためには、原告の公務と本件疾病との間に相当因果関係が存すること、すなわち、時間的、場所的に明確にできる公務に関した事件が原因となって、本件疾病が発症又は増悪したことが医学的に明らかでなければならない。

(二) 原告は、本件疾病の原因は、昭和五〇年五月下旬に発生した本件事故によるものであると主張するが、仮に本件疾病が本件事故によるものであるとすれば、原告は受傷時に受けた衝撃によりかなりの損傷を受けたはずであり、かなりの痛みを感じ、直ちに医師の治療を受けなければならない状態となるはずであるところ、原告が本件事故直後に医師の治療を受けた事実はなく、原告が本件疾病について受診したのは、本件事故後約四年を経過した昭和五四年五月であり、X線撮影による検査もこの時に初めて受けたものである。

(三) また、原告は、公務遂行中蜂谷圭吾に度重なる暴行を受けており、それらの暴行が本件事故に加わって原告主張の諸症状が発現したものであるから、本件事故と本件疾病との間には相当因果関係があり、公務上の災害であると主張するが、本件疾病が公務上の災害と認められるためには、時間的、場所的に明確にできる公務上の事件が原因となって、本件疾病が発症又は増悪したことが医学的にみて明らかでなければならないところ、原告の主張は漠然と他にも公務遂行中暴行を受けたと主張するのみで具体性がないから右相当因果関係が認められないことは明らかである。

(四) 脊椎変形症の原因は、一般に加齢による脊椎の老化現象とみられており、五〇歳台で六〇パーセント、六〇歳台では八〇パーセント認められているから、本件疾病についても、原告が大正一五年六月一五日生れであることからみて、加齢的変化によるものと判断するのが妥当である。

(五) したがって、本件疾病と原告の公務との間には相当因果関係はない。

三  原告の反論

1  原告は、蜂谷から突然肘で頸部を殴打されるという本件事故により激しい衝撃を受け、一ないし二分間気絶するほどの傷害を受けたにもかかわらず、すぐに医師の診断及び治療を受けなかったのは、原告が非常に我慢強い性格だったからであり、例えば、原告が昭和三五年五月ころ池袋駅のプラットホームから転落し、後頭部にひびがはいるという傷害を負ったときにも、自ら医者に行こうとはせず、数日後同僚の教師が原告を無理に医者に連れて行って診察を受けさせたところ、後頭部にひびが入っているということで直ちに入院ということになったほどであり、また、当時、原告は太田教諭、青木教諭と共に七人の重複障害児を担当しており、一日中生徒を追って学校内外を駆け巡るという状況が続き、原告らは相当の疲労が蓄積していたが、一人が休暇を取ると他の教諭の負担が更に重くなり、簡単に休んで病院へ行けるという状況ではなかったからである。

2  加齢的変化とは年齢による老朽化のことであるが、脊椎や頸椎は外傷を受けることがない場合には変化することはなく、したがって、脊椎ないし頸椎が単に年齢によって老朽化し、脊椎変形症ないし頸椎変形症となることはない。

3  本件のX線撮影結果による原告の下位頸椎の異常は受傷の痕跡と解すべきであり、過去において外傷があったという場合には一番最近の外傷を考えるのが医学的にみて妥当な判断である。

第三証拠(略)

理由

一  請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

二  原告が昭和三一年六月東京都公立学校教員に任命され、昭和五〇年当時東京都立大塚ろう学校において勤務していたこと、原告が同年五月下旬午前一〇時三〇分ころ同校中等部特別学級教室において屈み込んで教科を説明中、男子生徒である蜂谷圭吾(当時一三歳)に肘で頸部を殴打されて受傷したこと、井上外科医師井上淳の診療を受け頸椎変形症と診断されたこと、原告が原告主張の時期に温知堂医院医師矢数道明の、井上外科医師井上淳の各診察を受けたことはいずれも当事者間に争いがなく、右当事者間に争いのない各事実に、(証拠略)及び原告本人尋問(第一回)の結果を総合すると次の事実が認められる。

(一)  原告は、昭和三一年六月一六日に東京都公立学校教員に任命され、同日東京都立文京盲学校教諭に補された。その後原告は、昭和三八年四月一日に東京都立大塚ろう学校教諭に補され、同校に勤務中の昭和五〇年五月下旬に本件事故に遭遇したが、その後も勤務を続け、昭和五九年八月三一日に退職した。

(二)  原告は、昭和五〇年五月下旬午前一〇時三〇分ころ、同校中等部特別学級教室において同僚の教諭青木光代と共に五人の生徒を相手にボタンつけの作業学習を行っていたが、原告が、大きな木製教卓に屈み込んで右生徒らに教科を説明していたところ、突然同教室内に飛び込んできた男子生徒蜂谷圭吾に肘で頸部を殴打された。原告は、しばらくの間目を瞑り、苦しそうに右教卓に伏せるような状態で蹲っていたが、間もなく立ち上がり、そのまま授業を続けた。そして、その後も特に学校を休むことなく出勤して授業を行っていた。なお、右蜂谷は、重度の自閉症傾向を有する情緒障害児であり、当時身長一六五・五センチメートル、体重約五〇キログラムという成人並みの体格を有していた。

(三)  原告は、昭和五〇年七月二日に視力低下及び眼のかすみ等の症状を訴えて、温知堂医院医師矢数道明の診療を受け、約二か月同医師の治療を受けた。また、同年一二月三日には、視力障害を訴えて近藤宏二内科クリニック医師近藤宏二の診療を受け、その際、昭和二五年ころから網膜色素変性症により病院に入院したり通院したりしていたと述べ、主として鍼治療を受け、昭和五二年四月ころまで右治療を継続した。

(四)  昭和五三年夏ころ、原告は、弟篠田英俊の知合いの接骨治療師稲見彰に診てもらった際、同稲見に対し、視力障害、頸部の圧迫、手、胸部、背部の痛み等を訴えたところ、同稲見から交通事故等の怪我の有無を尋ねられ、原告はそこで初めて本件症状の原因が本件事故にあるのではないかと思い至り、その後数か月間同稲見の鍼治療及び矯正治療を受けた。

(五)  さらに、原告は、同稲見の右治療を受けていたが、科学的な見地から患部の症状を知るために、昭和五四年五月一日に井上外科医師井上淳の診療を受け、その際、約三年前に怪我をし、首の後部が痛いと訴えた。同医師は診察のうえX線撮影をしたところ、第五、第六頸椎間の後屈があり、その間の椎間板も狭くなっており、本当のところは分からないが、少なくとも半年以上前の外傷によるものであると推定され得るとして、頸椎変形症と診断した。そこで、原告は牽引等の治療を始めたが、同稲見から牽引はあまり良くないと言われ、数回受けただけで止めてしまった。

(六)  その後、原告は、他の医療機関の治療を受けたが、捗々しくなかったので、再び昭和五五年一二月に井上外科で治療を受けることにし、牽引治療を再開して、約一年近く続けた。また、原告はこの間の昭和五六年七月一〇日には、再び近藤宏二クリニックで視力回復のためではなく牽引治療の代わりに鍼治療を受け始め、さらに、昭和五七年四月からは保坂治療院において、鍼や灸の治療を受けるようになった。

なお、原告は、昭和六〇年七月ころから、殆ど目が見えない状態となり、眼科医の診断を受けたところ、右症状の原因は網膜色素変性症のためであろうといわれた。

以上の事実が認められる。そして、右認定の事実、殊に、原告が本件事故直後しばらくの間目を瞑り、苦しそうに教卓に伏せるような状態で蹲っていたが、間もなく立ち上がり、そのまま授業を続け、その後も特に学校を休むことなく出勤して授業を行っていたこと、本件事故後一か月以上経った昭和五〇年七月二日に初めて医師矢数道明の診察を受け、その際視力低下、目のかすみ及び立ちくらみ等の症状のみを訴えていること、また、同年一二月三日には医師近藤宏二の診察を受け、その際にも視力障害のみを訴えていること、ところが、本件事故から三年以上経った昭和五三年夏ころになって初めて接骨治療師稲見彰に対し、視力低下等の症状の外に、頸部の圧迫、手、胸部、背部の痛み等を訴えていることからすると、本件事故により原告の受けた傷害はその後授業を継続することができないほどの傷害とは認められず、本件事故後一か月程して視力の低下、目のかすみ及び立ちくらみ等の症状が出たこと、そして、本件事故から三年以上経って初めて頸部の圧迫、手、胸部、背部の痛み等の上肢の症状が発現したことがいずれも認められる。原告は、本件事故直後から全身的に具合が悪く、頸上部の骨がねじまげられるように痛み、首の骨が折れそうであったと主張し、(証拠略)にはこれに沿う記載もみられるが、原告自身、原告本人尋問(第一回)において、受傷した日の夜は、殴打されたのであるから少しは痛かったが、特に苦しい感じはなく、全身が疲れたという程度の感じで終り、受傷後一か月程して、目がかすみ、眩しく感ずるようになり、体全体が苦しくなったと供述していること、また、右認定のとおり、原告は、受傷後最初に診療を受けた医師矢数道明や同近藤宏二に対し、視力低下や目のかすみ等の症状のみを訴えており、頸部等の異常を訴えたことを認めるに足る証拠はないこと、さらに、確かに原告が主張するように、(証拠略)及び原告本人尋問(第一回)の結果によれば、原告が相当我慢強い性格で、仕事にも熱心で障害児教育に全精力を注いでいたことが窺われるが、原告がいかに我慢強い性格で仕事熱心であっても、治療のために医師の診療を受けているのであるから、頸部等に異常があればこれを医師に対して訴えないということは考えられないことからすると、(証拠略)は信用できない。その他右認定を覆すに足る証拠はない。

三  そこで、右事実関係のもとで本件事故と本件疾病との間の因果関係について判断する。

1  先ず、原告は、本件疾病は外傷性のもので、原告は本件事故のほか頸部に特に外傷を受けたことがないから本件事故と原告に発現した様々の症状の原因たる本件疾病との間には相当因果関係があると主張するので検討する。

証人山崎典郎の証言及びこれにより成立の認められる乙第一号証によると、頸椎は第一から第七までの頸椎に分けられ、第一ないし第四頸椎を上位頸椎、第五ないし第七頸椎を下位頸椎といわれていること、上位頸椎の病変からは眩暈や目がかすむ等の症状が生ずること、下位頸椎の病変からは手の痺れや首の痛み等の上肢の神経症状が発現すること、頸椎変形症のような頸椎や椎間板に後遺症が残るような外傷があった場合には、立ってもいられないような痛みが持続し、その痛みが直に消失してしまうような性質のものではないこと、上位頸椎の殴打による外傷があった場合にそれが下位頸椎に影響を及ぼすことはないこと、頸椎変形症は加齢により起こり得ることがいずれも認められる。証人井上淳は、頸椎変形症は加齢によっては起こり得ないと証言するが、同証人の挙げる頸椎に変形のない事例は、ほとんど頸部への打撃がなかった場合であり、年齢を重ねていくうちに頸部に多少の打撃を重ねて頸椎変形症になり得ることまでをも否定はしていないから、右認定を左右しない。

そこで、原告が本件事故により傷害を受けた部位を検討してみるに、特別の事情がない限り、事故後最初に現われた症状が当該事故による症状と解するのが相当であるところ、前記二及び右認定の各事実によると、本件事故後一か月程して原告に上位頸椎の病変の症状が出現し、下位頸椎の病変の症状が出たのは本件事故後三年以上も経ってからであり、他の特別の事情も認められないから、原告が本件事故により受けた傷害の部位は上位頸椎であることが推認される。他方、本件疾病を検討してみるに、証人山崎典郎の証言及びこれにより成立の認められる乙第一号証によると、原告の罹患した本件疾病は第五、第六頸椎椎間板の軽度の狭小と後彎形成及び第六、七頸椎体全面の骨棘形成がみられるという病変であることが認められるから、本件疾病は下位頸椎の病変であり、右に認定した事実によると、下位頸椎の病変からは手の痺れや首の痛み等の上肢の神経症状が発現し、前記二認定の事実によると、本件事故から三年以上経って初めて頸部の圧迫、手、胸部、背部の痛み等の上肢の症状が発現しているから、右各症状は原告の罹患した本件疾病によるものである。したがって、下位頸椎の病変である本件疾病が上位頸椎への傷害を惹起した本件事故に起因しているものということはできない。証人井上淳は本件疾病は外傷性のものであると証言するが、前記二及び右認定の各事実によると、頸椎変形症のような頸椎や椎間板に後遺症が残るような外傷があった場合には、立ってもいられないような痛みが持続するものであるが、原告は本件事故後も休むことなく授業を継続していたのであるから、少なくとも本件疾病は本件事故による外傷性のものであるということはできず、右証人の見解は採用しない。したがって、原告の主張は理由がない。

2  次に、原告は、仮に頸椎の変形が本件事故により直接生じたものではないとしても、本件事故が主たる原因となって、これに本件事故後の蜂谷による暴行が加わって原告の症状が一層悪化し、本件疾病が生じたものであるから、本件事故と本件疾病との間には相当因果関係があるというべきであると主張するので検討する。

(証拠略)には、原告は、昭和五〇年一〇月下旬に中等部特別学級教室において背骨を、同年一一月上旬に同教室において同じく背骨を、昭和五一年四月上旬に埼玉県森林公園において鎖骨を、同年六月に同教室において右膝をそれぞれ受傷した旨の記載があり、原告本人尋問(第二回)の結果によると、右各暴行は蜂谷圭吾によるものであり、右書証は右各受傷後五年以上も経った昭和五六年に原告本人らの記憶に基づき原告の弟篠田英俊により作成されたことが認められ、原告がそのころに蜂谷から暴行を受けたことは窺えなくはないが、その具体的な暴行の態様、程度、正確な受傷の部位等の暴行の状況は明らかではなく、他に右暴行の状況を特定し得るに足る的確な証拠はないから、右各暴行により原告の症状が一層悪化し本件疾病が生じたとはいい得ない。しかも、右1に認定したとおり、原告は本件事故により上位頸椎を殴打されたものであり、また、本件疾病は下位頸椎の病変で、上位頸椎に傷害を受けこれが下位頸椎に影響を及ぼすことはないから、本件事故が主たる原因となって本件疾病が生ずることはあり得ない。したがって、原告の主張は理由がない。

なお、前記二認定の事実によると、原告は昭和二五年ころから網膜色素変性症により医師の治療を受けており、視力低下は本件事故後も一貫して続き、昭和六〇年七月ころには殆ど目が見えない状態となり、そのころ眼科医の診断を受けたところ右症状の原因は同症のためであろうと言われたのであるから、原告の視力低下の原因は同症によるものと認められる。

3  したがって、原告の主張する因果関係はいずれもこれを認めるに足りず、本件事故と本件疾病との間の因果関係は、他にこれを認めるに足る的確な証拠もないから、その証明がなされていないことになる。

四  以上のとおり、本件疾病については本件事故との間に相当因果関係が認められないとして公務外の災害と認定した本件処分は適法なものということができる。

五  よって、原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 酒井正史)

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